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なんやこれ

8/8日記 オルタナティブ・最後の韻文

 

 この前、詩人や歌人があまりウケない現代において韻文の地位がどんどん下がってて、歌こそが韻文の最後の砦なんじゃねーのみたいな話をしたんですよね(文脈はシャニマスの話題でしたが)。

 歌詞は最後の韻文だ、といっても、現代の『歌』としての韻文の影響力はすごいように思います。どんな人でも好きな歌の歌詞の一つや二つ覚えてる状況を見れば、歌というものが日本人の言葉や情操に及ぼすものってかなり大きいんだなと。歌の歌詞ならば、どういった歌が好きでどーいうのが嫌いとかちゃんと言えちゃう。

 ところで、僕は直球な歌詞より比喩的な歌詞が好きです。「好きだーー!!」とか「別れたマジ病む」とか「グッバイ」とか「君は綺麗だ」とか言っちゃうタイプのやつより。

 両者の優劣はさておき。前者みたいな表現をするタイプのミュージシャンやバンドの音楽性って、なんかオルタナティブがどーのこーのとかよく言われてますよね。僕は音楽に詳しくないのであれこれ言うとすぐボロを出しそうですが(以後の文章で実際大いにボロを出している)。ウィキでオルタナティブロックの項を見ると、『産業ロックに対抗すべく生まれた』『代わりになる(Alternative)』ロックということで、なるほど産業と一線を画してるから分かりやすさよりなんというか『それっぽさ』を出した入り組んだ詞を作っているのか、と(私はオルタナティブな歌詞の方が美しいと思ってますが、直球勝負な歌詞にも美しさはあると思うのであえて『それっぽさ』と言うことにする)。

 つーことは、そんな『それっぽさ』に惹かれてしまう私も人間ウケする『産業』と一線を画したオルタナティブ・人間なのかもしれない。

 私がオルタナティブ・人間なのかはさておき、私は逆張りオタクである。周りの人間がAにハマっていたら私はBにハマっている。私がBにハマっているのを見た周りの人間が「Bもよさそうやね~」って言い出したとしても、そのころには私はAにハマっており、「今更Bにハマるのかよプゲラ」とか言っている。とことんまで嫌なやつだなオイ。

 で、オルタナティブロックも一種の逆張りみてえなもんなのではなかろうか(オルタナティブロックバンド人間が逆張りオタクであるかどうかはおいといて)。事実、二十年前の邦楽シーンでは、ヒットチャートで冬がまたやってきたり春がSpringだったりしていたのを尻目に向井さんは気がついたら夏になっていたりした。そういう問題ではないか。

 今だって世の中がヒップホップにお熱であるのに未だに私のような人間はロックに固執している。五年くらい前に「次世代のロックはブラックミュージックとの融合だ」とか言ってた詳しそうなひとも世の中があまりにもHIPをHOPさせてるのに驚いて最近はうかつなことを喋らずに骨太なロックばっか聴いてる(気がする)。この辺にギャクバリティブ・根性が垣間見えるのではないだろうか。

時代の波ならばHIP HOP イマドキ女子は皆Tik Tok

未だに僕らはロックンロールと フォークソングをシンガロング

(ハンブレッダーズ『銀河高速』)

 とはいえ、時代の波には完全に逆らえないというものである。いずれ、右も左も老いも若きも男も女もきのこ派たけのこ派もチョコミント好き派もチョコミントなんて歯磨きの味しかしねえだろ派もヒップホップな時代が来るのだろう。

 そんなときに、逆張りオタクはヒップホップの人を目指すのだろうか。個人的には目指してほしい。なぜなら、ヒップホップこそむっちゃ韻文だからである。

 ヒップホップといえばライムである。ちょー韻を踏む。これってよく考えたらロックやポップより韻文してるではないか。

 かつて東アジアを席巻した漢詩とかいうやつでは韻がクッソ重視されていたらしい。それに加えて語のイントネーションもちゃんと決められていたらしい。ライムとフローの詩である。

 ということは、ヒップホップの人の中に紛れ込んだ逆張りオタクのオルタナティブな人が、そのオルタナティブ人間独特の『それっぽい』文学性を発揮して手の込んだリリックのライムとフローがバチバチなマスターピースを披露してくれれば、それはもうネオ漢詩オルタナティブ最後の韻文・改ということになるのではないだろうか?

 

 オルタナティブ・ヒップホップ、流行り始めたら私は掘ると思う。